2009年10月28日水曜日

日本の富とまちづくり復活にむけて/その2



さて、余談めいているが、
イタリア トリノでの国際建築家連合の世界大会会期中にサボィア旧王宮で自作建築5作品を展示したついでに永遠の水の都,ヴェネチアを訪れてみた。ご存知の通り,車道はなく,船と歩道しかない,ヒューマンスケールの歴史的文化遺産のマチである。その永遠の水の都ヴェネチアで,あのぼろぼろのパラッツオいくらくらいかな?と現地の方に聞いたところ、

「どうでしょう。日本円にして3億円はしますね。」といわれた。

3階建て約2~300坪くらいの延床であろう。しかも敷地は建築物目一杯の敷地だ。築400年以上はたっていそうな改修絶対必須の建築物だ。

どう見ても日本の価値観でいえば、観光地でもあるこの地でプチホテルリニュアルで改修するにしてもその価値は日本の不動産的見方をしてしまったら,3千万円位にしか見えなかった。
つまり,その所有者は水の都ヴェネチアにあって、不動産価値を水に流すことなくしっかり
ぼろぼろでも建物を資産として現金化できるのだろう。であれば、その建物不動産を高く買っても目減りしないので、、次の人もまた同じ論理で採算度返しで買うことが可能となる。
また買ったに近い価格で売れるという理屈。日本の住宅のように30年経って資産価値限りなく0となるのとでは,不動産「資産形成」が大いに違う。マチに建築文化経済的富の蓄積がなされ,市場形成されている部分がある。日本が豊かになれない理由がここにある。
それでも日本でもよく似たことがある。いや,それ以上のことがあった時期があった。それは高度成長期からバブル時代までの土地神話の上昇しかない時代。確かに似てはいるが、あくまで土地の話でしかない。また言い方を変えれば,目減りするが、日本の建築ように極端な目減りしない分、地域の不動産の付加価値の富が温存されるということだ。

日本のインフラ財産の政策転換を変えなければならない。

つまり、地域の富の最たるものが
その芸術文化の「まちづくり」でなければならない。
それが地域の富のサスティナビリティともいえる。

ところで,ヨーロッパでは歴史的に、 優れた建築する営為は
あまりに時間がかかり、とりあえずできたのだけれど、
当初の建築家が亡くなってしまい、次の建築家が継承し、
おまけに当初の施主すらもなくなり、
子息おろか孫の代までかけて完成とりあえず使えるようになり、
そのあと数百年かけて何度かデザイン意匠グレードアップ改修工事をして
またその都度違う建築家がその建築に付加価値を加えていくような 文化的な建築の営為が確かにある。(日本伝統建築の建築家に相当する当社創業者のような棟梁、その彼らによる,そのような歴史的建築営為も稀にあるが。)

ドンドン骨董的な価値が高まっていくようなリニュアルはこれから日本でも市場形成されていくシナリオはこれから王道ではなかろうか。現状維持,性能確保は大切だが,それだけでは建築の価値はサスティナブルとはいえないだろう。もちろん建築の価値のサスティナブルと地球環境に優しい物理的なサスティナブルが連動する。

つまり,地球に優しいいわゆる3R(リサイクル,レデュース,リユース)は,建築の価値や富の温存に実は大きく依存する事の方がかなり多い。なぜなら,建築は社会的存在であり,経済的存在でもありながら,サスティナブルを保証するのは,建築のもう一つの重要な特質,すなわち芸術文化的な特質であるからであり,またそれを最終的にないがしろしては,冷静に考えれば建築のサスティナブルはあり得ないとさえ言い切ってよいからだろう。

弊社の創業からの建築文化へ捧げる暗黙知のような遺伝子がこだわる理由も,今日的な理由として,そんな側面もあるのだろう。

そのためには建築が社会経済的存在である以上,他方,この国の相続税上の建物時価相当理由となる固定資産税評価額の運用のしくみをしっかり見直さない限りは理想論で終わり、絵に描いた餅になる部分もあるだろう。

経済活動と芸術文化と税制は建築の成立主要予条件であるゆえ、さけて通れない改革の着眼部分だ。いままでその芸術文化を経済活動と税制の部分で相乗効果させる論点が薄かった部分があったことに他ならない。

他方、ぜひとも30才台以下の日本をしょって立つ若手には,特に少子化をせき止めてもらい,高齢化による現役世代の年金破綻懸念を打ち消す新たな解決方法を模索し,獲得する意味でも,そのような市場形成の担い手になってもらうことが必要なのではないか。その点,日本を背負って立つ後継の若者を私,いや弊社としても仕事を通し,応援したいところだ。

各界の専門家,教育界の先生方にもぜひ,一つその点を宜しくお願いしたい気分も濃厚である。

日本の富とまちづくり復活にむけて/その1

日本という国は個人資産形成で世界的に極めて興味深い事をしている。
まさに「水に流す」と言ったほうがよさそうなくらい、結果的に財産形成に自覚がない。
日本の義務教育で教育を受けない株とかの有価証券の投資話ではない。
それはかえって今となっては不幸中の幸いといえる状況かもしれない。

ではこれはどうか。

日本の個人財産の最たる住宅取得は、30年もしないうちに不動産上の建物が実売査定上、タダ同然扱いになる。

つまり、土地代にしかならないということ。
しかも、今の日本では平均的なことをいうと,郊外の土地は売れなくなってきている。
少子化が解消されない限り、環境の魅力が特段よくない限りそうなるであろう。

欧米はどうか、アメリカで騒いでいるあのサブプライムローンの住宅取得による個人財産形成のほうが「サブプライムショック」と世界中を震撼させているが、下落したとしても半分になることはなく、建物評価が中古でも日本から見れば,いい値段評価極まりないだろう。まだ上出来だ。

そう考えると、いかに所得があろうとも、「財産を水に流して消費する国民」と言われても仕方がないのが、実は日本の住宅市場システムだった。 これに歯止めをかけなくてはいけない。これが国民の富を守る、強いては国益を守る、大きな建設業界の使命の一つだといえる。

財産形成で経営が巧みな人は、
自宅は「自腹を切る費用」という人がいる。

いろいろな価値観はあるが,
投資とリターンの財産形成、富の形成の人から見れば正論といえる。そういう人にとっては自宅とは「最後のぜいたく品」ともいえるので、できるだけ貯金の余力が確実に見えるときに初めて購入する余禄のようなものだ。

もっと言ってしまえば、投資しても住宅そのものは「財産を水に流して行くだけで、富をなにも産まない投資」つまり財テクにならないぜいたく品というのが、日本在住投資家であれば今まではそれが正しい認識といえる。

今までの日本の住宅市場の危うさは実はここに深い根底がある。

住宅不況を騒がれるが、あこがれのあの住宅が、
老後には「土地以外タダ」になるのが今の日本の現状だ。

昨年から展開された、国土交通省からの長期優良住宅制度の問題意識の背景にはこのようなことが横たわり、国交省がそこをどれほど自覚的かどうかは別としてその大きな改善のきっかけをいま住宅政策で取り始めたといえる。

もし、自覚的であったとするなら、
住宅不況はそのような政策背景で官製不況として作られたという部分も説得力がある。

たしかにプロサイドで考えると、建築家として、自分の設計したものが「中古でタダ」同然ではやはり悲しい。

今までは住宅ばかりでなく、ビル,マンションでも同様であった。

まだ救われるのはビルマンションであれば収益見込める建築物なので 、最近では収益を稼ぐことができれば建物の値段は収益還元法でそこそこの値がつく場合もある。

しかしながら、建築も文化財だ。文化芸術的な作品としての骨董価値をこれから形成してゆける不動産建築市場を建築家は真剣に考えていくことが、国の国富を日本人の富を守ることへとつながる。そのような文化芸術的な経済市場を作れるようにすることが建築文化の向上をもたらす。

こういう事を論ずる人はあまり建築界にいないので、ぜひトライすべき正論というところ。

つまり建築業界の停滞理由の時代背景一因は潜在的に、ここにある。

しかし、みんなが「中古建築を水に流さない市場の土壌の形成」をやっていけば、この国の国民の富は力強くなる。1500兆円の国民の財産のファンダメンタルはもっと力強くなり、
国の債務とのバランスシート上 資産が明らかに積み上がるような国家が誕生する。不動産担保の国であるからにして、明らかに金融機関の債権保全カバーリスクが向上し、金融市場が向上し、貸し剥がしずらくなるだろう。

そこで開ける視野は、
新築はそれなりの富を持つ余力のある人が文化住宅(懐かしい響き)を建てるものになっていくだろう。

中間所得層の人は、リニュアル品質のいいものを中古取得する住環境成熟社会になっていくだろう。それは、今の新築を取得するより住生活が豊かになる可能性を秘めている。

そして、タダになる今よりは、将来は立派な値段で中古住宅を老後に「財産」として売れる時代が来ることをここで未来の希望、展望としたい。 そうすると、少子高齢化で今の年金におびえる現役世代の論旨がかわる。今の老人世代のような待遇を受けられなくとも、建築の資産形成が老後できる市場へと変化する訳であるから、その年金支給減分を補完するリバースモーゲージ等のより一層,踏込んだ国家政策をとってもおかしくはないのだ。

未来向けて建築にできること、建築の社会貢献は単なる地域まちづくりだけでは終わらないほど、今日的その意義は実はかなり社会的に大きい。

もし何かの経済的失敗リスクがあつても「目べりしづらい」中古住宅を今のように2足3文で売り飛ばすことなく、個人財産のセーフティーネットになっていくようにすれば、日本の個人の富が本当に蓄積していく時代が到来する。

ここで「なぜ日本が欧米と比べて高所得なのに富の実感を感じられないか」の本質の一つが
明らかにわかるであろう。

住宅を賃貸で貸せるのではないかというけれど、本人はその時その賃料で自分の居住費に充てなければならないので状況によるが,やはり収益物件とは言い難い部分が生じる。

今の日本の特に住宅建築不動産世界では作れば作るほど
「富を30年でミズに流す。」つまり,老後になって水に流してしまう高齢者社会日本。
それでも今の老人達は高度成長期に土地の財産形成が出来ている。地価の高い大都市の宅地不動産取得だけの個人財産形成はこれからの住宅取得しようとする世代にとっては,そのような事は,長期的にはいまのところ難しいそうだ。そうであれば,建築の資産価値を温存させる新たな市場形成カイゼンがどうしても求められる。

従って,今後は建築設計界も上記の市場形成からお役立ち使命を考えれば、
決して悲観的ではない。

有限資源を今まで以上に意識するサスティナブル時代には
このようなトレンドシフトが大いに予測される。

それは明るい展望であることは間違いない。

2009年10月15日木曜日

札幌コンベンションセンターで弊社企画の建築家展が始まります。



明日から上記の通り,イベントが始まります。

私の建築空間環境セミナーも15時からあります。

ひとつ,宜しくどうぞ。

2009年9月1日火曜日

今年も9月になってきました。



【写真は,先代から長い付き合いのある開拓時代からの一族の方から
 記念館的建築を依頼され、私がデザインし、当社がてがけた邸宅】



さて,総選挙も終わり,9月です。

秋は物事を深く考えるには相応しい季節。

90年以上前,この地で創業した山本仁四右衛門の想いが偲ばれます。



私はその孫にあたるのですが,私が生まれる5年前に他界しました。

つまり,祖父を私は一度も見ることができませんでした。

子供として5番目だった父は,戦前6歳で母に他界され,

高度成長期前に父に24歳で他界されてます。

それゆえ,経営のバトンを渡された父も苦労の連続でした。

私も幼少期からその仕事の姿をそばで見続けてきました。

それだけに,私は祖父への関心,想いが
人一倍,強いのかもしれません。

今では私にとって伝説化したその創業者の事を

事業に照らし合わせながら,創業者の足跡(ソクセキ)を辿りながら

この会社の理念を,遺伝子を深く思い巡らすことが度々あります。


改めて振り返ると、創業者は激動の社会を生き抜いてきました。

開拓期,世界恐慌,戦争,戦後復興・・・。

どのような心意気で,面持ちで,そして想いでそれらの激動期を

過ごしたかを,とうとう創業者である祖父と同じ立場である私は

直接聞くことはできなかったのです。

そこから、冒頭に話した祖父への関心,想いがやはり,

いろいろな角度で、深く思惟を促すのです。

このような90年以上の創業の歴史のある企業を見つめていくと,

リーマンブラザースに端を発し,象徴されるような
「金融至上主義資本経済」を多少の知識をもつならば,
皮膚感覚で読み取る事が出来ます。
企業の利潤は「手段」に過ぎず「目的」ではないという事です。

確かに企業は利潤無しでは生きてはいけないものです。

しかし,理念の追求こそが企業の源泉であり,
サスティナブルな源泉である事を

本当は逢えてもよかった,祖父の創業者への憧憬を込めて,

心の中で祖父と対話しながら
私は,そのように想いを深めていってます。

創業者の理念や想いは,抽象画と同じく詩的多様性の可能性のある

企業にとっては初源的な「言の葉」だと捉えるなら,

その理念や想いは時流に即し,
創造的な解釈のもと開花させていくべきものと

深まり行くであろうこの秋に,改めて思惟したりしたくなります。



2009年4月21日火曜日

3つのサスティナブル


近代化以降,現実,見ての通り,
複雑多岐にわたる諸分野,諸制度,諸体制の構築がなされてきている。

特に20世紀後半以降,情報化時代と21世紀初頭,
その度合が「ナイーブな扱い」になっている事をふと,実感します。

そして,その「ナイーブな扱い」が複雑多岐な社会経済の,
一見して情報過多の中で,本来の本質的成果や本質的解決と乖離して,
一人歩きし始める事も多くなってきている気もします。

私は21世紀,私達の持つべき凝縮したキーワードを一つ上げるとするなら,
それはやはり,「サスティナブル=(長期)持続性」だと思ってます。

しかし,そこには「3つのサスティナブル」があると思います。

1つは,今一度見直し、盛んに議論されている
「有限な地球環境のサスティナブル」

2つめには,1つめの自然の営みと長期的に矛盾しない
「第2の自然としての人類経済社会体制のサスティナブル」

3つめには,上記2つを支える資質の
「心(精神)のサスティナブル」です。


その3つをまとめて広く捉えるなら,
「地球&人類経済社会の生活の営みのサスティナブル」とでもなりましょうか。

21世紀の「環境」時代。

その「環境」とは上記3つのサスティナブルの程よい調和なのだろうと思います。

特に2つめと3つめがこれからこの「環境」に関する重要な視点として,
従来の延長上の惰性で成果が出せない部分を再構築されるべき時代に
さしかかっていると思います。

その為には,「本質あぶり」が必要です。

最終的には「私達は何のためにこの地球,この国,この地域に生きているのか。」
「その生きる意味を持続的に発展させるにはどうすべきか。」
というところ迄行き着くところがあるでしょう。

21世紀は,上記1の地球の星に生き長らえさせていただく存在ととらえたり,
地球や自然の意思体現のサスティナブルな環境を、能動的に創造する存在ととらえる
時代になって来ていると思います。

そうすると,生きる其の意味が見え易くなってくるのだと思います。

その為に先程3つの中で話した2つの
「心(精神)のサスティナブル」
「第2の自然としての人類経済社会体制のサスティナブル」を
その生きる意味に照らし合わせ,どう世界なり国なり地域なりを再構築するかが
繰り返すようですが,これから取り組むべき「環境」要素として本当に重要な気がします。

歴史が教えてくれるように,エネルギー転換が文明を変えます。
つまり私の言う「環境」が変わります。
今迄の文明の歴史がどれだけサスティナブルだったかは別として。

あらたな文明は世界を変えるインパクトにはなります。
そして,それを扱うだけの時代精神,あらたな心の有り様があってはじめて文明という変化を人間の感触実感へと変え、豊かにしていくクリエィティブ・スピリットの取組みも当然,必要となってきましょう。

それを「芸術文化」と捉えるなら,
私達の企業はそのような「環境」の中で,
21世紀を迎えて,どのように皆様への提供が出来るのかを,
弊社90年の長い変革の歴史のサスティナビリティを織込みながら,
「可能性が開かれた,素敵さ」を中心にできるだけレッドオーシャン市場ではなく,
まさしく地球環境時代のブルーオーシャン市場として共生的かつ共創的に考えていけたら,それは素晴しい事だと思っております。

私達はそのような思考の広がりの中で,可能性の開かれた「環境」への取組みを

より素敵に,具体的に,ポジティブに考えていきたいと思っております。

今後とも,弊社の取組みに関して一つ,皆様,宜しくどうぞ。

2009年4月3日金曜日

新規開設します。


  • ようこそ。
  • 新規ブログを開設します。
  • 今後とも宜しくどうぞ。